No.0053:戦力の逐次投入 〜 一気にいかないと
2018.04.30

 表題の言葉は、 短期の間に一気に集中して行うことで得られるはずの成果が、ちょっとづつ、ちょっとづつ、ちまちま行うことで、何も得られないことを表現する言葉です。例えば2013年に黒田日銀総裁が黒田バズーカーと呼ばれる圧倒的な規模の異次元緩和策を発表した時に、従来の効果に乏しい小出しの金融緩和政策を「戦力の逐次投入」と呼んで批判していました。必要な兵力を一気に動員し短期の圧倒によって勝負をつける作戦でした。目標としていた2%の物価上昇は成し遂げられていないものの、円安や低金利による景気回復により、もはやデフレとは言い難い状況で、一定の効果はあったように私は思います。

 成果を上げるために必要な資源の投入量が決まっている場合、その必要量をクリティカル・マスと呼びます。例えば1ヶ月後に予定されている資格試験の合格に90時間の勉強量が必要な場合、クリティカルマスは90時間で1日平均3時間(3時間×30日=90時間)の勉強量が必要です。ところが努力を小出しにして1日2時間とした場合、試験には合格できません。 試験の合格だけを成果と考える(不合格でも学んだ内容が今後の役に立つ、とは考えない)のであれば、3時間未満の努力(戦力の逐次投入)は、すべきではないとの選択は(合格できない努力は無駄だから)、数ある選択肢の中で合理性を帯びた選択です。

 歴史を振り返っても「戦力の逐次投入」はダメダメで、投入し得る力を短期に集中させ、一気に勝負をつけることの大切さが述べられています。

例えば兵法書の孫子には以下の下りがあります。
鷙鳥(しちょう)の撃ちて毀折(きせつ)に至る者は節なり。
鷲や鷹が急降下して一撃で獲物を仕留めるのは、瞬間での勢いがあるからだ。

武田信玄の風林火山には下記のような意味があります。
林:敵に察せられないようチャンスを林のように静かに待つ
火:攻撃は火のように激しい勢いに乗じて行う

 中世イタリアの政治思想家であるマキャベリは著書「君主論」の中で次のように書いています。

 加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。そうすることで、人にそれほど苦汁をなめさせなければ、それだけ人の恨みを買わずにすむ。これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。 (かなりエグい内容ですが、分かっている人は、かなり意識的にやっていると感じることがあります。)

 江戸時代の兵法家である宮本武蔵は「五輪書」の中で、戦いにおいて数の面で劣勢の場合は相手に「戦力の逐次投入」をさせるような戦術を説いています。例えば 自分1人で10人の敵を相手にするようなピンチの場合、狭い通路のような場所で戦い、1対1を順に10回繰り返すようにすることで、複数の敵に囲まれ、一気に攻められる「集団リンチ」状態を作らせない、敵を分散させる各個撃破な戦い方です(絶対に1対1では負けない程度の強さが前提ではありますが・・・)。

 私は色んなことに手を出してしまうタイプですので最近、選択と集中の必要性を強く感じています。もう少し選択、絞り込むことで、深さを増し競争力を高められると思うからです。それでも選択できないのは、選択は心理的負担が大きい、つまり怖いからです。何故かというと 選択することで、選択しなかったことを捨てることになるからです。結婚の決意が、夢だった限りなくゼロに近い女優との結婚の可能性を完全なゼロに変えるように。とは言え 自分の持っている時間やお金は限りがあります。ですので、その限られた資源を、自分が最も「やりたい」と思うことに可能な限り仕向け、「やりたい」以外のこととは可能な限り距離を置くことで、尖鋭な針先をより尖らせて、一気にターゲットに突き通したい、そんなふうに考えています。
一気に加速する sonic youth