No.0050:Here,There and Everywhere 〜 どこだって 、いつだって
2018.01.30


 タイトルはビートルズ1966年のアルバム「Revolver」に収録されている曲です。いつも彼女がそばにいてくれる、なんて幸せなんだろう!を綴った曲です。しっとり、ちょっと寂しげなメロディーに心を揺さぶられてしまう曲です。私の田舎では夕方5時(夏は6時だったかも?)を告げるチャイムのようなもののメロディーがビートルズの「yesterday」です。薄暗くなりかけた秋の夕焼と「yesterday」、切なさを呼び起こすには十分すぎる組み合わせです。もしそれが「Here, There and Everywhere」だったとしたら似たような、ひょっとしたら、そこに少しだけワクワクも混じった感じなのかな?とかどうでも良いことですが、ふとそんなことを考えてしまいました。歌詞もメロディーに劣らず格好良くて例えば、こんな感じです。 

Watching their eyes and hoping I'm always there 
彼女の瞳を見つめていると、僕はずーっと、そこに映っていたいと思うんだ 

 私は、かつて二郎系ラーメンを年間200回以上食べていた頃があります。あの匂いを、味を、油を、感じていると、ずっと食べていたいんだ、そんなジロリアンの想いに通じる詩です。 

 ところで、20年前と比較して今がより「どこだって、いつだって」に変わったことといえば、オフィスに限定されていたことが、自宅、さらにはカフェ、電車の中で出来るようになったことです。私はコンピュータシステムの構築、運営の仕事に長く携わってきました。そんな職業柄「うまくシステムが動作しない、どうなってるの?」といったお問い合わせをいただくことが少なくありません。中には緊急性を要することもあります。20年前に本当にまずいことであれば、これからすぐにそちらに向かいます!みたいなことで休日や夜に緊急出撃ってこともありました。それが  今では、現場に向かうことなく、スマホ、タブレット、モバイルPCによって、その場ですぐに対応が出来ます(出来てしまいます)。それは非常に便利である反面、お客さんの期待値を上げてしまう厄介な側面も持ち合わせています。 電話をすれば、すぐに、そうまさに瞬時に対応してもらえることがお客さんの当たり前に・・・待たされるなんてあり得ない!といったように。このようなことにより、いつお客さんから電話がくるか分からない・・・といった、一種の恐怖のようなものを感じてしまうようになります。家族とのディズニーランド、知人の葬式、大切な人とのデートなど、様々なシチュエーションで、ファミコンのポーズボタンを押すように、それを中断し、仮想的にお客さんのところに出向いたことがあります。  器械の発達に貪欲でありすぎる場合、人間を消耗させることがあります。そんなときは、幾度かの試行錯誤による、いい塩梅の模索が求められるようになります。  

 同じようなことで、かつては遠く離れた人との連絡といえば、手紙、もしくは自分の体についてくることはない電話、重たすぎるデスクトップ型パソコンのメールでしたが、ここ10年は携帯のメール、さらにここ5年はスマホのLINEなどの  即時性のコミュニケーションが普及したことで、素早い反応が要求され、それが心理的負担になっている自分にうんざりしてしまったことがあります。こういうことがエスカレートしてしまいますと、常に割り込みに怯えながら、自分の時間を確保できない、時間貧乏になってしまう!と本気で思っていたことが、かつてありました。「どこだって、いつだって」による情報伝達の効率化が、使いようによっては非効率を招いてしまう本末転倒、その利用法には本当に気をつけないと!と強く思います。 例えば
  • SNSやメッセージアプリの確認の回数を自分の中でルールとして制限する。つまり、タイミングを決めて、それ以外では確認しないようにする。
  • スマホのメールやメッセージの通知機能を必要最小限にし、重要ではない情報の通知による、集中の中断を避ける。
  • 即時性の低い、メッセージに対して作業を中断してリアルに反応しない。リアルな反応が当然になると、待たせてしまったときに相手を失望させてしまうからです。あーあの人は反応が遅い人だから・・・と思われていたほうが全然マシだと考えています。
 とはいえ「どこだって、いつだって」が常態化したことは総じて歓迎すべきことです。我が家は共働きで、息子が2人いるわけですが、時間に余裕のない中で「どこだって、いつだって」の恩恵は大きすぎます。例えば
  • 家族(6歳の末っ子は、さすがにまだですが)で予定を共有して、その調整を「どこだって、いつだって」容易にできるようにしています。(役割分担でもめたりも多いですが)
  • 妻の帰宅が遅い時は、おやすみなさいの前にテレビ電話で会社の妻に子供が1日の出来事を報告することで、その淋しさを緩和しています。
  • 妻、私の予定が重なってしまうような場合、私の仕事は内容によっては「どこだって、いつだって」でOKですので、自宅で子供の世話をしながら仕事をすることがあります。
 仕事や生活に必要な多くが、インターネット上の雲(クラウド)の中に整理されていることが、「どこだって、いつだって」を可能にします (お客さんによってはクラウドは危険!!!ということで全てがその限りではありません・・・が)。そのようなことにより少 し大袈裟かもしれませんが、どこでもドアで、家から仕事場に瞬間移動して、仕事が出来るようになるのと同じような効果を得ることができます。しかも、その情報をチームメンバーと共有しておくことで、遠く離れていながら、最新の情報を交換しあい、共同で作業を進められることには強烈な効果があります。通信手段に乏しかった、その昔に、特定の星を同時に眺めることでお互いの距離を縮め、心の隙間を埋めたように。

 昨今、働き方改革という言葉が映画のタイトルみたいに、これでもか!といった具合に喧伝されている中「どこだって、いつだって」による効率的な働き方の理解が深まって欲しいものです。長い時間、働いている人が、、、偉い人の目の前で頑張っている(ふりをしている)人が、、、偉い人より先に帰らない人が、、、偉い、そういう価値観が少しでも修正されることを願いたいものです。

良いとか、悪いとかではないんだ、考え方次第なんだ
ハムレット

 時折立ち寄る本屋の片隅に簡素なプレハブ作りの焼き鳥屋があります。また近所のスーパーの駐車場で、軽トラを改造して作られた移動式の焼き鳥屋がゲリラ的に営業していることがあります(もちろん、スーパーの許可はとっているとは思いますが)。後者は ニーズのあるところに自ら移動できます。自由に、柔軟に、迅速に。歴史上、最大の勢力圏を誇ったモンゴル帝国の強さの源泉であった卓越した乗馬技術によりもたらされる圧倒的な機動力みたいに。前者と後者ではビジネスの形態として雲泥の差があるのではないでしょうか?私もそんな身軽さ「Here, There and Everywhere」を常に恒に意識していたいと考えています。