No.0045:日常〜繰り返し 
2017.08.27 

 お盆、甲子園が終わると、今年の夏も終わってしまったんだ、そんな寂しさを感じてしまいます。私の育った町は海水浴客で賑わう観光地でしたので、夏の終わりを惜しむ気持ちが少しだけ強いのかもしれません。その後は、落ち着いた、静かな、平坦な時の流れに戻されます。秋祭りはそんな寂しさに対する激変緩和措置なのかな?とか本気で思ってしまいます。お正月、仕事での出張、大切な人との久しぶりの再会、でも同じように非日常にワクワクし、↓な気分とともに日常に戻っていく、気分の凸凹が繰り返されます。

 私はそんな退屈な日常の中の小さな変化を知るために、日常的にあることをウォッチする、つまり定点観測を続けています。私はスーパーで買い物するのが大好きです。小さい頃、母親に連れられて、おまけ付きのお菓子とか、お気に入りのカップラーメン、お総菜を買って貰うのがワクワク体験として強烈に記憶されているからです。そんなワケでほぼ毎日、スーパーで買い物します。そこで見るのは、価格、売れ行き(売れ残り)、どんな商品が良い棚をキープしているか?といった店舗の事実で、ニュースや流行りなど社会的な事実との関係を自分なりに検証しています。

 緊急輸入制限の影響で牛肉は高くなるのかな?(今のところ変化ないな、卸値は上昇しているようだから、きっとスーパーが負担しているんだろうな?)。ビールの安売り規制は自分の生活に影響大でマジでイタい、でも小さな酒屋さんを守るためには仕方ないことなのかな?・・・。僕の大好物のウナギの価格が少し安くなった、要因は、稚魚の豊漁、インドネシア産など外国産の輸入増、ウナギみたいな代替品の登場、といったことがあるみたいだ。もやし20円とかで売っているけど生産者は大丈夫なのかな?とずっと思っていたところ、生産者が近年、激減していて、生産者団体の方が流通業者に「安売り勘弁してください、もう限界です!」みたいな悲鳴を挙げている記事を最近、雑誌で読みました。そんな些細な日常の変化の因果関係を密かに考えるのもオモシロいものです。

 日々、変化に乏しい、平らなループである日常に、何かを実現するために必要なことをルーチンとして組み込むと楽に継続できるという話を随分と前に聞いて実践しています。朝起きたらすぐにiPhoneで英語を聞き流しながら身支度を整える、通勤はソニックユースを聴きながら前半は新聞、もう半分は雑誌、気になった情報はevernoteにクリップ。帰宅の電車は少し疲れているので小説など興味の強い読み物、そんなふうに、ほぼ抵抗なく当然の日常として、グルグル回っています。
 
ソニックユース
 日曜日など、外出しない日は、決まった時間、決まった場所でルーチンをこなす習慣が確立されていない為、平日に比べると圧倒的に時間が残されているにも関わらず、頭のエンジンのかかりが悪く、平日よりも成果が少ないことが結構あります。 やる?やらない?なんて判断なしに、当然やる、にしてしまうことは本当に効果絶大です。歯磨き粉、シャンプー、カップラーメンなどの日用品について選ぶのが面倒なのでずーっと同じのにしてしまうように。

 その一方で 日常化、パターン化してしまうことのダメもあります。思考が凝り固まって、ヘタすると、柔軟性に乏しい時代遅れの人になってしまいます。機動戦士ガンダムの過ぎ去ったテクノロジーを今も最先端のように騒いでいるアムロのお父さんみたいに。なので 日常化、パターン化を利用しつつも、本当にそれは今の自分にとってそぐわしいか?のチェックは欠かせないと考えています。自分を取り巻く外部的な状況および自分の想いといった内部的な状況は常に変化していきますから、そういったことにそぐわなくなってきた日常、パターンは捨てて、新たなそれを作っていかないといけません。非常に面倒で、時として傷みを伴うことではありますが。 自己嫌悪は正しい感情だと考えています。それは自分への「今のままではダメだよ。変えないと。」なサインだからです。定点観測の対象として自己嫌悪も含めていきたい、とこの文章を書きながら思ってしまいました。