No.0043:post-truth ~ 真実なんかより心地よさ
2017.06.27 

  去年のアメリカ大統領選の時にSNSで候補者の信頼を落とすようなフェイク(インチキな情報)によって随分と票が動いたのでは?といったことが大きな問題となりました。 真実かどうかはさほど重要ではなくて、自分の不満とか怒り、不安を解消してくれる都合の良さ、でっち上げを疑うことなく受け容れてしまう人が少なくなかった、何故かというと、エスタブリッシュメント(エリート)によるグローバリゼーション(地球規模で商売して皆で豊かになりましょう、な考え)信仰は自分たちに惨めさしかもたらさなかった、そんな疎外感、格差意識が充満していたからです。焦り不安といった心理に巧に働きかけ入り込む、冷静に考えたらどう考えても・・・な振り込め詐欺みたいに。

 私が感じている法則のようなものがあります。他人の服装についてとやかく批評する人は???なセンスであることが多いということです。???とは個性があるとか、勝負しているとか、そういうのではありません。控えめで保守的なのですが、その中に微妙な違和感があるのです。多分、ご自分でも気づかれていて、どうにかしたい、でもそうなれない、だから他者への批判で憂さを晴らしているのかも、そんなふうに勝手に理解しています。 

 経営学者ピータードラッガーは自らの著書の中で次のような言葉を残しています。

 何が正しいかよりも誰が正しいかに関心をもつ者をマネジメントの地位につけてはならない。

 今流行りの忖度、忖度、忖度な組織が道を誤ってしまう、そんなことを表す端的な言葉なのかなと思います。ただ、常に「自分にとっての正しさ」を追究することに私はこだわっていません。何故かというと、それをしてしまうと日本のような和とか上下関係を重んじる風潮の強い文化の中で力を発揮していくことは難しく思うからです。力を合わせ成果を出していくために違いを受け容れる度量が欠かせません。かといって、 この人に一生ついていくとか、この組織は絶対だから、みたいなことで真実に背を向けて、自分の想いを無視しまくるようでは残念すぎます。自分の直感を信じて、これだけは譲れない大切は守らなければいけない、それが難しいようであれば、とことんぶつかってもいいし、そこを去るのもありなのかと考えています。

 物事の理解に対する表現について多種多様であることに驚くことがあります。10%くらい分かって「完璧」って言えてしまう人がいれば、90%理解しているにも関わらず「うーんイマイチ」って人もいます。皮肉なことに前者が後者を「もー本当に分かってないな!」なんて言ってしまうことがあります。お互いの深さをグラフみたいなもので簡単に可視化できるワケではありませんので。軽い雑談であれば、それで良いのですが、仕事で大きな方向性を決めるような局面で、それはさすがにダメなので私は 自分や相手がどこまで考えているのだろう?を確認するために、質問を繰り返して、真実を置き去りにしないように注意しています。トヨタ式5回のなぜみたいに。

 私はチャンスをチャンスと気づくことなくスルーした挙げ句「チャンスに恵まれない、なんて僕は哀れなんだ」そんな真実を無視した、心地よい言い訳に浸りたくない、嗅覚を研ぎ澄ませて、 ちょっとした、でも重要な意味のある変化にフックできる自分でありたいと考えています。そのためにも多くのことに触れて、多くのことを捨てて少しのことを大切にする、そんな活発な新陳代謝を続けていきたいと考えています。
ジョンレノンの真実の歌