No.0025:清貧〜足るを知る
2016.01.24

 アメリカの利上げ、中国の成長鈍化、原油価格の暴落、と不安要素のオンパレードによって年初から株価が暴落する中、日経平均の2倍の値動きをする金融商品を保有していた私は、リーマンショック以来の大怪我をしてしまいました。きっと今が底値に違いない!神様、仏様、日銀様、速攻で金融緩和(株価上昇の材料となる金融政策)してください!なんて思っていたところ、損失はあれよあれよという間に膨らみ、先日これ以上リスク取れない!と判断し、勝負から撤退しました。ホドホドって難しい、自分のモットモットな欲って愚かだな、と落ち込んでしまいました。

 そんな自分の欲による失敗から何年か前に流行した「清貧」という言葉を思い出してしまいました。googleで「清貧とは」で検索すると

無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていること。

と説明されてました。そこまで達観できないですが、足るを知る、ほどほど、適度に、そんなふうでありたいなと、つくづく思ってしまいました。

 清貧という言葉に関連して先日、NHKの「100分 de 名著」という番組で子供たちと遊ぶ無邪気で質素なイメージがある詩人の良寛が紹介されていました。彼の考えによると 世の価値観、例えば収入、学歴、地位、そういったモノサシを捨てると楽になる、一方で、そうすることは孤独をも併せ持つことだけれど、孤独を受け入れ、愛すということらしいです。ただ孤独とは言っても世間から離れ一人ぼっちということではなく、適度に距離を置いて必要あらば交わる、そんな感じかと思います。白州次郎のカントリージェントルにも通じる気がします(清貧とはかけ離れた人でしたが)。欲に執着しても、人はいずれ、この世から消える、だったらそこから解き放たれて自由に生きていこう!と。私も自分としての価値観を大切にしたい、なんて考えてはいるものの、人と比較してしまう自分を少しだけ恥ずかしく感じてしまうことがあります。

 また良寛は 自然といった大きな存在を前にすることで、ちっぽけな人間のサガ(例えば見栄とか嫉妬とか憎しみとか)は、どうでも良くなってしまうと感じていたようです。私も故郷の山奥で自然を感じながら、背負っている、背負わされている、ことに囚われることなく、もっと自由でありたい、そんなふうに思ってしまいました。実際には難しい部分もありますが、少なくとも、そうありたいと考えていたいものです。

 似たような言葉で私は断捨離という言葉が大好きです。不要なモノは捨て去って、最小限で、シンプルに生きていきましょう!って考えです。私はモノ意外にも、反省の済んでいる苦い過去、目的とか原因とか考える際の本質ではないこと、古びた現状にそぐわない知識や技術、過度に自分の立場を守るための臆病な理屈、なども捨てるべきだと考えています。そんなことがいつまでも頭の真ん中にへばりついていると、新たな素敵が入り込むスペースが狭くなってしまいますので。

 このように素敵な「清貧」ではありますが、私の生き方として必ずしも「貧しく」ある必要はないと考えています。お金とか地位だけのために、鼻息荒くして、時には人を蹴落として、それを追求することについて私は、格好良いものだと思いません。その一方で自分の信念に基づき成し遂げたいことに対して夢中になって、必死になって、その結果としてお金、地位がついてくるのであれば、それはそれで素敵なことだと私は考えます。

 道理正しき功名心は、甚だ必要であると思う。これあるために勉強心も発する、発奮心も起こるではないか。
 渋沢栄一

 私は清貧という言葉に格好良さを感じる一方で、apple(iPhoneを作っている会社)の新商品が発売になると、それを所有し得られる体験を想像することで欲に負けてしまうことしばしばです。appleの商品は余分が極限までそぎ落とされたシンプルさが魅力で、それには少なからず清貧に通じるコンセプトがちりばめられていると私は考えています。幾分、言い訳じみているとは思いますが。
自らのstyleへの「足るを知らない」ポールウェラー