No.0023:二宮金治郎〜子供が真似する?
2015.12.19

 先週末に、家族旅行で鎌倉・江ノ島を訪れました。天気が良く、さらに泊まった海辺の宿も薪ストーブが暖めた部屋でのアコースティックギターによる演奏などもあり、とても素敵な週末でした。今回はそんな旅先にほど近い小田原に生を受けた二宮金治郎(尊徳)について取り上げてみました。

 最近、私たちが子供の頃、当たり前のように、小学校で地味に輝いていた二宮金治郎の薪を背負いながら本を読む銅像が減っていることをご存じでしょうか?子供が真似して、歩きスマホを助長するようなことになったら危険だとか、子供が働いている姿が教育現場にふさわしくないとか、エッ?な理由によることのようです。

 視点がずれているというか、ここまでくると、いちゃもんにすら感じてしまいます。貧しさから抜け出すために、わずかな時間をも惜しんで努力する、積小偉大(ちいさなことからコツコツと)、そういった愚直な姿勢が、偉大なヒーローを作ったんだ、ってことを表現したいのであって、一体、どうして?と感じずにはいれません。

 確かに、これを真似して、スマホ見ながら歩く人もいなくはないと思います。でも、そんな小さいこと、言ってたら、世の中の殆どの素敵なことは、否定され、マイナスは無いがプラスも小さいひっかかりのない退屈であふれてしまうのではないでしょうか?視点が極、極、小さな部分に偏りすぎているように思います。子供たちにとって完璧なヒーローって一体、誰なんでしょう?アニメとかバーチャルの世界でなく、現実にそんなヒーローいるんでしょうか?

 どんなにいいアイデアでも小さなマイナスで否定されてしまうことがあります。嫉妬・既得・保身とか絡むとなおさらに。完全に良い、完全に悪い、のどちらしかないみたいに言う人は厄介です。「どちらかというと、こっちがいい、どうしてかというと、こんなダメはあるけど、こんなにOKが大きい、他にOKがダメを、これだけ上回っている選択はない」が通じません。小さいことダラダラいって、トータルとしてダメな選択をしてしまったりします。

 2007年に少子化を食い止めるために出生率を上げる必要があって、女性に子供を産んでもらいたいことを表現するために大臣が口を滑らせて「女性は生む機械」なんて発言してエラいことになったことがありました。機械とは女性にたいして失礼だ!じゃ産めない女性はどうするんだ?といった批判が妙に盛り上がった一方で、肝心の少子化対策の議論はトーンダウンしてしまいました。大臣の発言は明らかにデリカシーを欠いた表現で、気を悪くした女性も少なく無かったと思います。しかし視聴率、選挙の票、欲しさのために失言を過剰に過剰に批判することで、論点を歪めてしまったマスコミ、野党にも???を感じました。

 本来であれば、お年寄りが増え、子供が減ることで、お年寄りの年金や介護、医療が危ない、そのために歪んだ人口の年齢構造を何とかしないと!つまり子供を増やさないと、だから子育ての負担を減らさないといけない、その実現にあたり、待機児童解消、女性の産後の職場復帰支援、男性の家事労働参加、教育費の削減、等々を促すにはどうしたらいいか?を時間をかけて議論しないといけないのに・・・残念に思ったことを記憶しています。共働きの我が家は、8年前も今も子育てに四苦八苦していますので。ただ8年前と比べたら随分と、少子高齢化に対する脅威というか危機感は一般的なものとなり、真剣に検討されている風潮の強さを感じるようになりました。面白おかしなワイドショーのネタとしてではなく。

 金次郎は貧しかった小さい頃、昼間の労働後の夜の自由な時間は菜種油の小さな灯りで、長時間、勉学に励んでいたそうです。矮小的な捉え方をする人は、そんな暗いところで目が悪くなるでしょ!って言うかもしれませんが、そんな戯れ言、どうでもよく感じます。そんな課程で身につけた知識、知恵が多くの人を正しい道に導いたのですから。本質を見誤ることのないようにしたいものです。

 間違った問題設定に対する正しい答えほど、たちの悪いことはない。
 ドラッカー

 木を見て森を見ず、な発言に対しては、勇気を持って何で?を忘れないようにしたいものです。
本質は何だろう?を感じさせるOASISの曲