No.0060:チャラい 〜 地に足をつけていたい
2018.11.30

 チャラいという言葉に、どのようなイメージをお持ちでしょうか?私は服装が派手で何となく怪しい、発する言葉が軽くて信用できない、その場その時の都合の良さだけで軽薄である、といった印象を持っています。私は「チャラい」の反対に誠実でありたいと思っていますが、かつて何も考えていない、と上司から言われていたことがあり、とても残念に思っていました。面倒なことから目を背けたり、小さなウソを繰り返して自分を守ったり、自分への不満をそらすために他者を攻撃して責任を転嫁したり、そんないい加減(チャラい)なアンタに言われたくないよ!(完全に愚痴モードです・・・)と悔しがっていた過去が懐かしく思い出されます。
 
 さて、そんなチャラさでまず思い浮かぶのが、ふるさと納税制度です。自分の愛する故郷などの自治体に納税(寄附)することによって、自治体間の税収格差を是正する、アイデアは素敵すぎます。しかし実態は、返礼(返戻)品狙いの節(脱?)税手段に成り下っています。事の問題を分かりやすく捉えるために大雑把に例えると、都会に住む人が故郷の自治体に10,000円を寄附して、3,000円相当の返礼品を貰った場合、都会の自治体の税収は10,000円のマイナスとなり、故郷の税収は7,000円のプラスになります。従って自治体トータルの税収の増減(都会の税収減+故郷の税収増)は(-10,000+7,000=-3,000)で返戻品分の3,000円が失わたことになります。 全体のことなんて知るか!自分のとこだけが良ければいい!みたいなチャラい寄付金ゲットのチキンレースが加熱し、自治体によっては返礼割合が70%とか80%とか意味不明な事態に発展してしまいました。そんな消耗戦が続くのであれば、納税収入の多い自治体から低い自治体へ直接、お金を移動する再分配のような仕組を考えた方がロスが少ないのは明かです。ただ、そうした場合、税収の多い自治体から不満が出るであろうから納得感はある一方で、チャラさこの上ない仕組になってしまったのかな?と考えています。最近ではそんなチャラさに対して総務省からの「指導」がなされているようではありますが。
 
 合理性はもっともではあるものの、メンツに比べればどーでもいい、そんな事情が事情を残念にする。
 
 また、先日テレビで中南米コスタリカは、病院が無料、教育制度が手厚い、軍隊を持たない、といった理由により世界で最も幸福指数が高い国であると紹介されていました。その反面、歴代政権が、国民に不人気な財政改革を先延ばしにしまくった結果、国の借金がとんでもない額に膨らんでしまったそうです。そういった状況を改革すべく、若い38才の新大統領が公務員の報酬カットを、国民の激しいデモなどの不満を浴びながら取り組んでいる様子が伝えられていました。その大統領が「僕たちの未来を守るために人気がないことに取り組んでいる。政治家になる人には3タイプある。①お金が欲しい人 ②格好をつけたい、人から好かれたい人 ③役に立ちたいという信念をもっている人。自分は③を大切に考えている。」みたいなことを言っていました。政治に限らず、 会社や友人、家族といった人間関係において正しい事をしようとすると、人から反発されることがあります。本当に大切な時に、言うべき時に、勇気を出せるかどうか?チャラいかどうかの分かれ目になるように思います。
 
 人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に嫌われるように積極的に努力しないと、ちゃんとした仕事はできない。

自分のルールを大切にした白洲次郎


 出来ない言い訳が妙に上手い人にもチャラさを感じてしまいます。どうしてかというと、その場、その場を上手くかわすことができますので、楽にするすると過ごしていけるとは思いますが、正面からぶつかって、跳ね返され、失意のどん底にたたき落とされ、もがき苦しみながら、少しづつ、少しづつ、盛り返していく、そういった大切な経験、つまり成長機会に乏しく、ずっとそのまま平坦に留まっている感が否めないからです。かつて私は、そのような人を羨ましく思っていたことがあります。世渡りってそういうことだと。ただいつからか、どーでもよくなってしまったといいますか、その軽さに違和感、不快感を持つようになりました。しっかり向かい合わないといけない、時、事は、言い訳は脇に置いといて、しっかりやろう、ダメなら、省みよう、謝ろう 、そんなふうに今は考えるようになりました。
 
 私は幕末の革命の先陣を切った吉田松陰が大好きです。自分のルールを持ち、それに従順に愚直に生きたからです。そんな吉田松陰が囚われの身の中、次のように仲間に語りました。
 
 われわれは遠からず死罪になる。いまの読書こそ、功利を排した真の学問である。学問とはこういう時期の透明な気持から発するものでなければならないのだ。
 
 私は知識を得ようとするとき、損得で考えることが多く、小を以て足るを知るチャラ男ですので、中々こうはなれませんが、その想いを参考に、自分の大切に対しては広く深く探求していかなければ!と考えています。またある歴史番組で 正しさと、分かりやすさ、の選択を迫られたとき、歴史は分かりやすさを選択してきた、後になって正しさに気づくことが多い、だからそのような人間の習性を理解した上での慎重さが求められる と説明されていました。昨今のポピュリズムに端を発するチャラさに通じる内容です。部分的、表層的な事柄をなるべく多くあつめて総合できる、そんなチャラさに乏しい自分でずっといられたら幸せだと思っています。 
チャラくないrolling stones