No.0067:心理的安全性〜こんなこと言ったらマズいかも
2019.06.30

  チーム内で自分の自由な発言が許され安心感を感じられるチームは業績が高い傾向にあるというgoogle社による調査結果が少し前に話題になりました。
 
 心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。
google社のホームページより
 
 逆説的ではありますが、その逆に空気を読まなくてはならない、暗黙の了解みたいなルールや声の大きな人に調子を合わせておかないと後々面倒なことになる、みたいな環境は、バブルくらいまでの成功の法則が通用した頃までは、一体感を保ちつつ前進、前進!するために、一定の効果はあったのかもしれませんが、そういうのがバタバタとなぎ倒され、 答のない答を探していかないといけない今において、負の側面が随分と目立ち始めています。王様を裸で外出させてしまう、地位を、年収を、はたまた快適を、惜しみ、見えもしない洋服を褒めちぎる取り巻きの側近みたいに。
 
 銀行の不正融資、自動車メーカの品質偽装、電機メーカの粉飾決算など、詳しく現場の方から話しを伺ったわけではありませんが、新聞や雑誌、テレビの報道をみていると、 厳しい目標が設定されていて、それをクリアするためには、どうしてもインチキが必要で、それを部下の責任でやらせて、上司はそれを黙認している、そんな構図がイメージされます。間違っても部下から上司に、それは間違っています、とか、出来ません無理です、なんて言えるはずのないピリピリした残念が感じられ、心理的安全性は皆無の状態です。
 
 ナチスの大虐殺に関わった多くの人達が、指示に従った「だけ」だと残したそうです。 役割を可能な限り細分化させることで全体として悲惨なことをしている意識をぼやかし「だけ」にしか関わっていない、罪悪感を感じさせなくするしかけがあったそうです。集団になると個人は「だけ」な責任転嫁に陥りがちです。 自分が担っている部分が最終的に全体として社会にどんな結果をもたらしているのか?すこし視野を高くして考える習慣をもっていたいものです。そこで自分の意に反するような思いを持った場合、勇気をもって声をあげ、心理的不安は最高潮に達しますが「和して同ぜず」を大切にしていたいものです。
 
些細よる結果が常に些細であるとは限らない。
 
 私は息子に対して、自分の正しさを押しつけている自分に迷い、自己嫌悪を感じてしまうことが少なくありません。質問によって息子を正しい方向に導くコーチングみたいなことも少しは試してみましたが、私はそんなに器用ではないので上手くいきませんでした。岸見一郎さん著書の「嫌われる勇気」で書かれているように、 息子の判断に可能な限り任せて困ったら相談にのるような接し方がいいのかなと思いつつ、放っておけないもどかしさもあり、色々と悪戦苦闘の毎日です。息子が私に心理的安全性を感じ、自由な会話ができる関係を持ち続けていたい、出来ていないことも多々ありますが、少なくても、そうありたいという意識は持ち続けていたいと考えています。
 
 このように人と接していく上で、重要な心理的安全性ではありますが、常にそのような環境に身をおけるとは限りません。そんな心理的安全性を得られない場合、自分が相手をそうさせているかもしれない、つまり 自分の言動が相手のそれをさせている鏡みたいなことかな?という自分への点検を忘れないでいたいです。自分では多様性の大切さとか、相手の思いへの尊重とか、そういうことを意識しているつもりではありますが、心のどこかでひょっとしたら「それはないでしょ」を感じていて、それが知らず知らずのうちに態度に表れていて、それが相手に伝わって、相手は心を閉ざしてしまう、そんな残念に陥りたくないからです。そのようなことで少しでも心理的安全性を相互に感じられる関係を拡げていけたら、素敵だと私は考えています。
心理的安全性を感じられるチームの曲